はじめに
京都の街が一番美しいのはいつか、と聞かれたら、私は迷わず「朝の6時から8時まで」と答えます。
日中の京都は、たしかに華やかで活気があります。けれど、有名スポットの行列や人混みに揉まれていると、ふと「私は何を見に来たんだっけ……」と、心がすり減ってしまうことはありませんか。かつての私がそうでした。
そんな私を救ってくれたのが、早朝の散歩です。
まだ誰もいない商店街、打ち水でしっとり濡れた石畳、遠くの寺院から響く鐘の音。そこには、観光用に着飾っていない、この街の「素顔」があります。
早起きは正直、ちょっと面倒です。冬なら布団から出るのに勇気がいります。けれど、その眠気を堪えて一歩外へ出た瞬間の、あのツンとした清らかな空気。それを吸い込むだけで、京都に来てよかったと心から思えるのです。
今回は、私が何度も歩いて、そのたびに「やっぱりいいな」と実感した、大人のための早朝さんぽルートをご紹介します。
なぜ、大人の旅には「朝」が必要なのか

仕事や家事で忙しい毎日を送っていると、頭の中は常に「次にすること」でいっぱいです。旅先でさえ、無意識にスケジュールをこなそうとしてしまいます。
早朝の京都が大人にちょうどいいのは、強制的に「何もしない時間」をくれるからです。
お店はどこも開いていないし、話し相手もいない。ただ自分の足音だけを聞きながら歩く。そうしているうちに、不思議と頭の中のノイズが消えて、呼吸が深くなっていくのが分かります。
カメラのレンズ越しに景色を切り取るのもいいけれど、朝の光に照らされた古い町並みをじっと眺めていると、写真よりもずっと鮮やかに、その情景が心に焼きつきます。そんな、自分を整えるための時間を、自分自身にプレゼントしてあげてほしいのです。
1. 鴨川のほとりで、ただ「水」を眺める贅沢
私が京都に着いて、まず最初に向かうのが鴨川です。ここは、街のど真ん中にあるのに、不思議と「自分だけの居場所」を見つけられる場所です。
おすすめは三条から四条あたり。
早朝の川べりを歩いていると、すれ違うのはジョギングをするおじいさんや、楽しそうに散歩する犬たち。観光客の姿はほとんどありません。
ある秋の朝、私は川沿いのベンチに座って、ただ流れる水を見つめていました。朝靄の中に光が差し込んで、水面がキラキラと揺れる。それだけのことが、どうしてあんなに贅沢に感じられたのか。
「今日は、あそこに行かなきゃ、これを見なきゃ」という焦りが、水の音と一緒に流れていくような感覚。鴨川の朝には、そんなセラピーのような力がある気がします。
2. 祇園・白川。掃除の音だけが響く石畳
夜の祇園は少し敷居が高いと感じる人もいるかもしれませんが、朝の祇園はとても親しみやすく、そして圧倒的に美しいです。
朝7時。白川南通を歩いていると、町家の玄関先で、お店の方が丁寧に竹箒(たけぼうき)で掃除をしている姿をよく見かけます。
「サッ、サッ」という乾いた音が、静かな通りに響き渡る。その音を聞くと、この街の人たちがどれだけ自分たちの場所を大切に守ってきたかが伝わってきて、胸が熱くなります。
柳の枝が風に揺れ、石畳にやわらかな朝日が落ちる。
日中の喧騒が嘘のような静けさの中で、古い町並みを独り占めする時間は、どんな贅沢なホテルのサービスよりも価値があるように感じます。
3. 清水へ続く坂道
「清水の舞台」で有名な清水寺。日中に行けば、人の波に押されるように歩くことになりますが、早朝は別世界です。
私はあえて、お店が一つも開いていない時間帯に、八坂の塔(法観寺)から二年坂、三年坂を上るのが好きです。
古い木造建築が並ぶ坂道は、まるでタイムスリップしたかのような錯覚を覚えます。
一歩一歩、坂を上るごとに景色が変わる。
途中でふと後ろを振り返ると、まだ眠りの中にいる京都の街並みが一望できます。誰もいない坂道の真ん中で、大きな深呼吸をひとつ。
この時間帯は、お寺の門をくぐる前ですでに満足感でいっぱいになります。目的地に着くことよりも、そこへ向かう道中を楽しむ。それこそが、大人の旅の醍醐味ではないでしょうか。
4. 嵐山・渡月橋。冷たい空気と山の息吹
嵐山もまた、朝の表情を知ってしまうと、昼間にはもう戻れなくなる場所の一つです。
渡月橋の真ん中に立って、じっと川上を見つめてみてください。
桂川の勢いのある水の音と、目の前に迫る嵐山の圧倒的な緑。早朝の冷たい空気が肌に触れると、自分が今、確かに京都にいるんだという実感が湧き上がってきます。
以前、霧の深い朝にここを歩いたとき、対岸の景色が真っ白に霞んでいて、まるで墨絵の中に迷い込んだような気分になりました。
橋を渡りきったら、人混みができる前の竹林へ向かうのもいいけれど、私はそのまま川沿いを上流へ、亀山公園の方へ歩くのが好きです。木々の匂いが濃くなり、自分の足音だけが頼りの静かな道。そこで出会う景色は、自分だけの秘密の宝物のように感じられます。
散歩の後のご褒美。「最高の朝食」を探して
たっぷり歩いた後は、お腹が気持ちよく空いているはずです。この「空腹感」こそ、散歩がくれる最高のスパイス。
私は、散歩の終点に素敵な喫茶店やパン屋さんを見つけておくようにしています。
老舗の喫茶店で、使い込まれたカウンターに座り、分厚いバタートーストと濃いめのコーヒーをいただく。
周りには、新聞を広げる常連客の静かな気配。
外は少しずつ慌ただしくなり始めるけれど、自分はもう一仕事(散歩)を終えて、ゆったりとした時間を楽しんでいる。その「優越感」も、朝散歩の楽しみの一つかもしれません。
無理をしない。がんばらない。「朝さんぽ」のコツ
せっかくの旅行だからと、気負いすぎるのは禁物です。私が心地よく歩くために決めている、ちょっとしたコツをお伝えします。
スマホを「機内モード」にしてみる
せっかくの静寂を、通知音で邪魔されたくないからです。調べ物はあらかじめ済ませて、散歩中は「今、ここ」にある景色だけに集中します。
距離を欲張らない
「三条から嵐山まで歩く!」なんて意気込まなくていいのです。一つのエリアを、猫のように気ままにうろうろする。それだけで十分です。
履き慣れた、ちょっと良い靴で
京都の石畳は、意外と足にきます。おしゃれも大事ですが、自分の足を労わってくれるスニーカーを相棒にしてください。
まとめ|朝を制する者は、京都を制す
「早起きして散歩しただけ」
客観的に見れば、それだけのことかもしれません。
けれど、朝の静かな京都を歩いた日は、その後の時間が不思議と丁寧に感じられます。ランチのお店を選ぶときも、お土産を買うときも、どこか心に余裕があって、街の細かな優しさに気づけるようになるのです。
京都は、早起きした人にだけ、その本当の姿をそっと見せてくれます。
次に京都を訪れるときは、目覚まし時計をいつもより1時間だけ早くセットしてみてください。
ホテルの重いドアを開けて、まだ青白い光の中に踏み出す。
そのとき、あなたを待っているのは、どのガイドブックにも書かれていない、あなただけの特別な京都です。
きっと、一生忘れられない景色に出会えるはずですよ!

